お城から駅に向かうとき、最初に目に入る喫茶店が〈コーヒーラウンジ紫陽花〉だ。この季節、「自家製ジェラート」の魅惑的な看板に足を止め、吸い込まれていく旅行者も多い。
〈紫陽花〉は、二代目店主の長谷川均さんが二十歳の頃に、父・幸吉さんと始めた店。神戸出身で船乗りだった父が、五十を過ぎて病いを患い、帰宅して療養していたとき、均さんから提案した。「陸に上がった河童に何ができる」。当初は乗り気でなかった父も「世界で見てきたことを紹介するような場所をつくれば」という息子に背中を押され、開業を決める。お城を出てすぐのところに一階が駐車場になっていた企業のビルをみつけ、そのスペースに店を構えた。均さんだけでなく、母の房子さん、姉の志保さんも、一緒に店に立つことが決まり、昭和四十八年、長谷川家の〈紫陽花〉は出航した。当時の大名町は金融街。まだ数が少なかった喫茶店には、オフィス勤めの人々が押し寄せた。ピロシキなど、物珍しい外国の軽食も話題を集めた。
順風満帆の船出のはずが、均さんは程なくして、ふらり世界一周の旅に出てしまう。九ヶ月間かけて三十八カ国を巡った。「ただのヒッピー」と語る真意は、父と同じ感覚を養うことだった。その父が、開業から五年経つ頃には入退院を繰り返すようになる。均さんは帰国後に入籍した妻・和恵さんの助けも得ながら、家族総出で店を営んだ。幸吉さんは平成元年に享年七十歳で永眠。母も店を離れつつあった。その後しばらくは「もうやめようか」と考える厳しい時期も続いたという。転機は今から十五年前。ふたりの娘が戻ってきて、店を手伝うことが決まったとき。これを機に〈紫陽花〉は、当時展開していたふたつのテナントから撤退、本店を全面リニューアル、今も人気のジェラートを導入した。
「うちは分業制なの。父がケーキ、母が料理、叔母がジェラート」娘の幸代さんが「だから一人でも欠けたら大変」と言って笑う。「でも家族だからね。そういうものでしょ」和恵さんがさらりと続けた。堀の復元、博物館の移転。変容する街の中枢を眺めながら、均さんは代替わりのタイミングも探っている。紫陽花は、初代の故郷、神戸の市の花だ。家族という最小単位にして最強の船が、この先も力強く進んでいく航海図が、いま、ここにある。
—
text|toru kikuchi
photo|kokoro kandabayashi
JULY.2018