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誰もが認めるこの街を代表する洋食屋。何を頼んでもきちんと滋味深くて唸ってしまう。正しい街の洋食屋で正しい洋食を堪能したいとき〈おきな堂〉がある松本は、やっぱり幸せだと思う。久々に訪ねたこの日は、九月の連休明けで火曜の午後。ランチタイム終盤にもかかわらず、一階も二階もほぼ満席で、店内は活況だ。二階の奥の部屋に通していただき、三代目・木内伸光さんにお話を伺った。

洋食屋〈おきな堂〉はそもそも、上土通りの菓子店〈翁堂〉から、その喫茶部門として昭和八年に独立した〈翁堂喫茶部〉に端を発する。〈翁堂〉創業者で伸光さんの曾祖父にあたる木内象次郎さんが「これからは喫茶だ」と考え、長女・とし路さんが結婚したとき、喫茶部門を立ち上げ、託した。そのとき、娘の慶事と独立を祝して建てたのが、いまも変わらない〈おきな堂〉だ。象次郎さんの予見はピタリと当たり〈翁堂喫茶部〉は洋食もある喫茶店として大いに賑わう。伸光さんの父、章皓さんの代になると、屋号を現在の〈おきな堂〉に改名。洋食店としての充実を図る。平成十年にはイタリア人シェフまで招き、手打ちパスタなどのメニューも加えた。いまやお馴染みのフレーズ「時代遅れの洋食屋」を掲げたのも章皓さんだ。

神戸の大学を卒業したあと、市内に戻り銀行員として勤めていた伸光さんは、こうした実家の移ろいを外から眺めていた。家業を継ぐ意志はなく、じき起業して自分の商売に邁進しようと決めていた伸光さんだったが、あるとき読んだ本がきっかけで、ふと立ち止まる。「いのちに関わる仕事をしよう」。思い出したのは、初代である祖母が最初の夫を早くに亡くしてから再婚した相手で、伸光さんにとっては小さな頃から背中を見て育ったもうひとりの祖父のこと。そして、九十八の天寿を全うする直前まで畑に立ち続けたその祖父が、毎日の食卓に届けてくれた野菜たちの味わいだった。伸光さんが人のいのちに関わる仕事を志したとき、それが医療や救命ではなく、むしろ祖父や自分を医者いらずの身体にしていた日々の食事にたどり着き、その大切さを伝えるフィールドとして家業の洋食屋を捉え直したことは、だから、いわば必然だった。

「イメージはできている」。祖母と父が築いた〈おきな堂〉の定番をしっかりと守りつつ、伸光さんは次の展開にも意欲的だ。「おいしいものを食べたいし、伝えたい」という純粋な想いに基づき、代替わりした当初から自社農園での自給自足にトライしてきた。一方で経営とのバランスの難しさも痛感してきた。ついにアプローチを変える決心がついたとき、伸光さんは信頼できる仲間と手を取ることを選ぶ。昨年あたらしいブランド「Chant Table」を立ち上げ、同名の姉妹店を松本市音楽文化ホールにオープンしたのだ。「Chant Table」は、自らも土に向き合ったことがある伸光さんの眼と舌が惚れ込んでリスペクトしている七組の農家と共に歩む。例えば〈おきな堂〉自慢のプリンを「Chant Table」の卵だけでつくれるようになる未来を、伸光さんは見据えている。「どんどん時代と逆行したい」そう言って楽しそうにニカッと笑う。このしたたかな「時代遅れの洋食屋」に、時代が追いつくのはいつのことだろう。〈おきな堂〉のチャレンジを間近で目撃し続けることができるこの街の住人は、やっぱり幸せだと思う。

text|toru kikuchi
photo|kokoro kandabayashi

OCTOBER.2018