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元号改正に伴う10連休で幕を開けた今年の「工芸の五月」が、開催35周年を迎えた先週末の「クラフトフェアまつもと」で幕を閉じた。栞日にとっては、5年前に発行されたフェア30周年記念誌『ウォーキング・ウィズ・クラフト』のタイトルになぞって『talking about 民藝』と題し、民藝にまつわる3本の企画「民藝の現在進行形」「アウト・オブ・民藝」「現在民藝館展」をほぼ同時に展開した1ヶ月間だった。

すべての展示と関連トーク、そしてフェア当日を終えて、この期間を振り返ったとき、僕は思いがけず、10連休序盤に開催した『微花(かすか)』復刊記念トークを想起していた。「植物図鑑」と著者自らが呼ぶ『微花』は、ふだん目にも留めず、もし視界に入ったとしても「雑草」と括って片付けてしまう街角の草花を、ひとつずつ撮影して、その名を添えて、収録している書籍で、著者である2人の青年の「あの草花ひとつひとつにも名前があるはず」という優しい眼差しから出発している。彼らは世間が「雑草」と切り捨てる草花を、美しく「微花」と呼び直し、図鑑として仕立てることで、温かく柔らかな光を「雑草」に当て、再び世間に示してみせた。

と、ここで僕は立ち止まる。もしかしてこれは、柳が「下手物」呼ばわりされていた日用雑器や生活道具を「民藝」と名付け、同志たちと蒐集して民藝館を開設した一連の動きと遠からずではないか、と。そしてそれは、一般に「不用品」とされる廃棄物たちを「日用品」と捉え直すことで、柳の「今見ヨ イツ見ルモ」という言葉の実践を促し、「民藝」という「モノの見方」はその瞬間瞬間に更新され続けるものではないか、と提言した〈L PACK.〉の「現在民藝館展」でも、表現されていたように思う。

一方で、昭和村のからむしを巡る営みにスポットを当てた展示「民藝の現在進行形」の関連トークの中で鞍田さんが触れていた通り、日常の道具に「民藝」と名付け、生活の中の美を提示した民藝運動は、「民藝ブランド」の確立に至り「民藝なるもの」と「民藝ならざるもの」を生み出した。結果、工芸品の産地では、市場価値の高まった「民藝なるもの」だけが集中的に制作されるようになり、本来の多彩さが損なわれた。「民藝」の功罪は、どちらもその名の中にある、と鞍田さん。からむし織りは「民藝」として語られたことはないけれど、その土地の人々の暮らしに深く根ざした工芸品のひとつとして、今回、現地から現役の道具たちをお借りして展示させていただいた。昨今、多くの産地が直面している、技術の継承や「食べていくこと」とのバランスといった課題、そしてそれらに向き合う当事者たちの試行錯誤を含め、まさにリアルな「手仕事の現在進行形」が伝わってくる内容だった。

そして、「民藝ならざるもの」に着目した「アウト・オブ・民藝」。民藝運動の同時代に、その周縁で展開していた別の動きを膨大な資料の海から読み解き、それらの書物も合わせて壁一面の人物相関図としてアウトプットした展示は圧巻の情報量だった。「はじかれたもの」や「交わらなかった人」にサーチライトを走らせると、中心にそびえる像がより鮮明に浮かび上がるという真実を知ったのは、きっと僕だけではなかったはずだ。軸原さんと中村さんの探求は、まだ始まったばかり、という印象すら受け、この先も目が離せない。

民藝・民藝・民藝と言い続けた1ヶ月間を終えて、改めて感じたのは、あたらしい言葉を生み出して名指す行為が有する力の、強さと怖さの両面だった。言葉を生んだ当事者たちが、意図しようとしまいと、彼らの価値観に基づいて対象を名指し始めた途端、その言葉に「見合うもの」と「見合わないもの」が峻別されて、知らぬ間に、結果的に、「部外者」が生まれてしまう。軋轢や衝突が将来的に「あのとき必要なことだった」と振り返ることができる日は来るかもしれないけれど、その顛末として失われる多様性や固有性や土地の記憶があったとしたら、それはやっぱり淋しく感じる。それを避ける術があるとしたら、絶えず、あらゆる角度から、その言葉の本来性を点検して、時代性を配慮しながら考察して、更新し続けていくことなのかもしれない(あるいは「微花」のように名指して「微花ならざるをもの」を生み出したとしても、誰を傷つけるでもない、穏やかでしなやかなあたらしい言葉もあるかもしれない)。


さて。翻って、クラフトフェアだ。今回の『talking about 民藝』は、クラフトフェアの向かう先を見定めるために思索と議論の場をつくる、という大言壮語を吐いて打ち立てた企画だった。僕はずっと「クラフトフェアまつもと」が定める「クラフト」が何なのか知りたかった。誰のために何を達成したい「あの場所」なのか、訊きたかった。それが示されないまま回数を重ねていく、自分が暮らす(そして、店を構える)街の一大行事に、船頭なき舟の彷徨を見るようで、どうにも心が晴れなかった。店に居て、街の外から来た人に(あるいは、僕が街の外に出かけたときに)「いまの松本のクラフトフェアがどこに向かっているのか分からない」と言われる度に、無性に悲しかったし、純粋に「もったいないなぁ」と感じてきた。そこで今年は敢えて「民藝」という強い言葉を持ち出して(「クラフト」が一般名詞であって「民藝」のようにあたらしくつくられた言葉でないことは百も承知の上で)いま「クラフトフェアまつもと」は「クラフト」をどう考えているのか、問いかけたつもりだった。

啖呵を切った甲斐あったのか、期間中に何度か、人づてではあったが、フェア運営サイドの指針に触れる機会があった。印象的だったのが「フェアはみんなのもの」という言葉と「決めないことだけ決めている」という言葉。「民藝の現在進行形」関連トークの中で分藤さんも「そもそも方向性を定める性格のイベントなのでしょうか」と僕に問いを投げ返した。これらの言葉に触れたとき、なんとも言えない脱力感に襲われた。肩肘張っていた力みが解けて、そういうことか、と合点がいった。『ウォーキング・ウィズ・クラフト』の帯文「それでも、この場所を続けてきた」の「それでも」にも腑に落ちた。

あるがまま。その年のその日、その芝生広場に広がった風景が「クラフトフェアまつもと」なのか。果し状を出すくらいの気持ちでしたためた『talking about 民藝』のフライヤーに対しても、フェア関係者からのリアクションはほぼ無風だった。が、それにも納得した。そもそも、僕の胸中に立ち込めていた雨雲は、あがたの森の頭上には広がっていなかったのだ。独り相撲だったな。それが、いまの正直な感想だ。だいたい僕が自分の中で明らかにしたかった事柄についても、大袈裟な花火を打ち上げる前に、ひとりでフェアの事務局を訪ね、直接訊けば済むことだったのかもしれない。分藤さんからも「からむしの作業をするとき、お茶の時間がとても大切。(これから担い手になっていく若手は)村のおばあちゃんたちとなんでもないことを話す中で、村やからむしのことを知っていく」と諭された。フェア運営の中心メンバーを訪ねて耳を傾ける姿勢が欠落していた、という反省と合わせて、近々あちらの扉を叩いてみようと思っている。そして、改めて、訊きたかったことを訊いてみたい。そこで初めて、為すべき行動が見えてくるかもしれない。遠回りはしたけれど、次の一手だけでも決まって、よかった。今回の企画に関わってくださった皆さまと、今回の企画を目撃してくださったすべての方々に、心から感謝します。ありがとうございました。

photo _ kokoro kandabayashi
text _ toru kikuchi