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小さいけれど真摯に革新を続ける宿がある。〈金宇館(かなうかん)〉の存在は、かねてから風のうわさで聞いていた。「もうすぐ百年を迎える」「次の百年のために改修する」という同館を訪ねることが叶ったのは、年始早々、改修のための休業期間に入る直前のことだった。

現在では「美ヶ原(うつくしがはら)温泉」の宿のひとつと思われがちだが、正しくは「御母家(おぼけ)温泉」。「美ヶ原温泉」は高度経済成長期に付いた呼称だ。四代目、金宇正嗣(まさつぐ)さんの曽祖父で瓦屋を営んでいた儀道司(ぎどうじ)さんが、「御母家」の地名はアイヌ語で「湯が沸く場所」を意味する「オポッケ」に由来すると信じて、仲間と一緒に採掘を始めたのが大正十五年のこと。三度の失敗を経て、昭和三年、ついに開湯、開業した。四年後には別館も増築。同じ通りには数軒の宿が立ち並び、戦前は湯治場として盛った。戦時中は世田谷の小学生およそ九十人を疎開先として受け入れたこともあったが、宿業としては縮小を余儀なくされる。それでも終戦後にフィリピンから帰還した祖父は、小学校教諭として勤務したのち、細々ながらも宿を続け、父もまた、名古屋の大学を卒業後、暫くして実家に戻った。

三人兄弟の次男として育った正嗣さんですが、高校在学中の進路選択の中で「家業を継ぎたい」と考えるようになる。進学先は立教大の観光学部。そして、那須〈二期(にき)倶楽部〉に就職した。ホテルの機能と旅館の情緒が同居する空間、不便をむしろ歓迎する美意識、自然と共存する宿の佇まい。那須での二年間で正嗣さんは「本物」を知った。退職後、銀座の和食処で料理を学んだ一年間を経て、十年前に帰郷。高校からのパートナー、枝津子(えつこ)さんも、富山大を卒業後、都内の航空会社で客室乗務員として働いていたが、これを機に帰省して入籍。ふたりで〈金宇館〉に入る。

まず館内の片付けから始めた若夫婦は、歳月を重ねた建物と地元の山辺石(やまべいし)が主役の庭園を活かす道を進むことに決める。先代までが取付けつつも時代の逆風に晒されていた日帰り宴会の利用よりも、宿泊客の心地よい滞在を優先。別館の二部屋を改装した。五年前には本館と別館を繋ぐ渡り廊下も改修。できる限り当時の姿を留めるように苦心して、やむを得ず新建材を使う場面でも意匠は崩さぬよう細部にこそ気を配った。

そしていよいよ本館の改修を迎える今年。「積み重ねた時間こそが宿屋の価値」と静かに語る正嗣さんの挑戦が始まる。温泉採掘の度重なる出費で恐らく資金難だったにもかかわらず、当時のステイタス「木造三階建」にこだわった初代が「本当は実現したかった理想」を、現存する館内のエッセンスから汲み取って、自分なりに表現していく。幾つもの難題が待ち構えているに違いないにもかかわらず、次の百年を見据えて、正嗣さんの表情は晴れやかだ。新装オープンは、次の次の春。いまから心待ちにして、そのときが来たらきっと泊まりにいこう。正嗣さんのあたらしい〈金宇館〉に。

text _ toru kikuchi
photo _ kokoro kandabayashi

FEBRUARY.2019