必要とあらばすぐ行ける距離に、いい酒の揃った頼れる酒屋があると重宝する。友人宅の夕食に招かれたときや、気がおけない仲間と食事会を開くときは、ここで自然派ワインを求めるし、帰省の折や県外に知人を訪ねる際は、ここで信州の地酒を選んでいく。駅前の〈中島酒店〉は僕にとって、なくてはならない存在だ。日頃からお世話になっていて「老舗の酒屋」という認識はありつつも、詳しく話を伺ったことはなかったので、今回改めて、三代目の中島忠之(ただゆき)さんと、奥さまの悦子(えつこ)さんを訪ねた。
〈中島酒店〉創業は昭和二年のこと。その当初から現在まで、ずっと同じ場所で営んでいる。創業者は、忠之さんの祖父、一忠(かずただ)さん。忠之さんが「いっちゅうさん」と愛称で呼んでいたのが印象的だった。もともと「さすこ」という屋号の酒屋で働いていた一忠さんは、「さすこ」の「さす」と自身の頭文字「一」を合わせて「さすいち」の屋号で独立。「酒のデパート」を標榜し、当時は珍しかった洋酒やリキュールなども取り入れながら商いを展開していった。一忠さんの体に無理が効かなくなると、忠之さんの父、清好(きよたか)さんが税務署勤めしていた諏訪から帰ってきて店を引き継いだ。これが昭和三十年頃のことで、時代は旅行ブーム。清好さんは、いまも〈中島酒店〉の標語となっている「地酒の館」を掲げ、土産物としての地酒に力を入れ事業を拡張させていく。昭和五十三年に松本駅が改修されたときから二十年近くの間は、駅ビルの中にも支店があった。
家業が酒屋という環境で生まれ育った忠之さんは、東京の大学に進学、卒業後、高田馬場〈佐々木酒店〉で配達、集金などの経験を積み、昭和六十年に帰郷。その三年後には悦子さんと結婚して、親子二代で〈中島酒店〉を切り盛りしていった。悦子さんは、平成六年に唎酒師の資格を取り、その二年後にワインアドバイザーも取得すると、酒のセレクトを徐々に任されるようになる。酒販免許が自由化されて、スーパーやコンビニにも酒が並び始めるようになったこの時代、これから先は「ファンをつくるしかない」そして「そのためには知識が必要」と悦子さんは考えた。先代までに築かれた地酒のベースは大切に守りつつ、ワインにも注力。ワインインポーター、金井麻紀子さんによるセレクション「マキコレ」との出会いをきっかけに、自然派ワインの品揃えも充実させていった。
「もう二十五年くらいになるかしら」と言って、悦子さんが取り出したのは、年に五、六回制作して「常連さんにレジで手渡す」という季節のお便りの原本だった。方眼紙の表裏にびっしりと、悦子さんの手書き文字や切り貼りした酒のラベルが並んでいる。どれも実際に飲んでその印象を綴った、ワインや日本酒の紹介だ。「これしかできなくて」と謙遜するが、いやいやどうして、そのまっすぐな感性と情熱に魅了されてこの酒屋で酒を選びたくなる人は、僕に限らず、きっと何人もいるはずだ。毎晩の食事に合わせて酒を味わい、その感想を日記につける。この習慣は夫婦二人の長年の日課になっている。その毎日の積み重ねが、これからもひとり、またひとりと〈中島酒店〉のファンをつくっていくことは、疑う余地もないだろう。
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text _ toru kikuchi
photo _ kokoro kandabayashi
NOVEMBER.2018